nishitani: 2015年11月アーカイブ

11月23日、今日はスレマニ郊外のペシュメルガ訓練基地へ行く。広大な山裾にトレーニング用の運動場と兵舎。まずは司令官のアミールさんにインタビュー。この基地に約300名の兵士がいて、IS支配地域への地上戦を想定して、訓練をしている。教官はクルド人だけでなく、アメリカ、オーソトラリア、ニュージーランド、デンマーク、イタリアなどから退役兵士がやってきて訓練に当たっている。武器は主にドイツとイタリアから。フランスやイギリス、アメリカの武器もあるが、米英仏は空爆してくれているので、地上戦の武器は(空爆していない)ドイツ、イタリアからのものが多い。
一通りインタビューをして、訓練場へ。
広大なグランドに兵士のグループが数カ所。まずは地雷、IED(路肩爆弾)撤去処理班の訓練を取材。兵士が金属探知機で慎重に地面を探り、雑草を刈り取っていく。雑草に隠れて爆弾が仕掛けられているので、まずは地面が見えるようにすること。10センチ、20センチと、センチ単位で前進する。兵士は防弾チョッキにヘルメット。ちなみにこの金属探知機はドイツ製だ。教官はニュージーランド人とオーストラリア人。退役軍人である。民間軍事会社の社員と思われる。
次にブービトラップ除去班へ。家に見立てた建物の中にどうやって侵入するか。家の中に箪笥があって、その箪笥の扉を開ければ爆発物が作動するようになっている。兵士は慎重にその箪笥にカギ付きの紐をくくりつけ、離れたところから紐を引っ張って爆発させる仕組みだ。
コカコーラの缶が置いてある。拾って持ち上げると爆発する。家に見立てた壁のところにロシア製の地雷が置いてある。地雷からは細いビニール紐が伸びていて、その紐が雑草で隠れている。兵士がその紐を足で引っ掛けてしまうと、地雷が爆発する仕組みだ。兵士は慎重に紐に近づき、長いアルミのしなやかな棒で、ビニール紐を取り外す。
家の扉がある。扉を開けると爆発するので、大きな三脚に30キロの重りをつけて、数十メートル離れたところからロープを引っ張り、重りで扉を破壊する。その後、兵士が家の中に侵入する。
以上のような訓練を繰り返していた。実際、モスルやラッカなど、IS支配地域では、このようなブービートラップが多々あって、ペシュメルガ兵士がたくさん犠牲になった。指導教官の米兵やオーストラリア兵は死なないが、実際に路肩爆弾で吹き飛ばされるのはイラク人(ペシャメルガ)で、首尾よく家に侵入した後、ISと疑われ、自動小銃で射殺されるのもイラク人(IS支配下の一般市民)だ。そして空爆しているロシア兵、フランス兵も(ISは高高度まで届く対空砲を持っていないので)殺されない。そして武器だけが消費されていく。
ロシア旅客機の爆破と仏のテロ後、猛烈な空爆が繰り返されている。おそらく短期的にはISは追いつめられる。ペシュメルガがイラク北部の都市を取り戻していく日も近いだろう。しかしそれでテロはなくなるか?ISはペシュメルガの背後に米英露仏がいることを知っている。追い詰めれば追い詰めるほど、欧米の都市でテロの危険が高まる。空爆とテロの繰り返し。私には、これは武器と石油支配をめぐる「壮大なゲーム」のように感じる。この繰り返しでは人が殺されるだけだ。
平和外交と地域住民の平和的蜂起。武器の流入の遮断。そして暫定政府の設立と民主的な選挙。こうした道筋を通らないと、この地域は安定しないと思う。

11月21日、今日は油田都市キルクークへ行く。キルクークはISとクルドのペシュメルガが、まさにその油田を巡って、内戦状態にある。スレマニからキルクークまでは高速を飛ばして2時間。通訳のファラドーンの車で、いざキルクークへ。スレマニを出て1時間ほどで、ペシュメルガの訓練キャンプ。あらかじめ許可を得ていたので、基地の中に入ることができた。この基地内に「女性兵士のための訓練施設」があり、その取材許可を得ていたのだ。
「ヤック、ドゥー(1、2)」。女性兵士たちが行進している。女性司令官によれば、ISと戦う特殊訓練をしているそうで、兵士の数500名以上。年齢は18歳から30歳。独身ばかりではなく、結婚して子育て中の兵士もいる。子どもを産めば、6か月の育休があるという。クルドは大家族なので、その後は叔母や祖母などが子育てをしているらしい。
基地の中にISとの戦闘で亡くなった女性兵士の写真。その写真の前で、30名ほどの女性兵士が整列している。
指導する兵士も女性だ。号令の下、2名の兵士が前に出て、合図とともにカラシニコフ銃を解体し、そして組み上げる。その間約30秒。いかに素早く銃を解体し元に戻すかという訓練で、実戦ではこの作業が遅れると命取りになる。この兵士たちは、ISとの前線でも活躍するのだが、DVに悩む女性シェルターのボディガードも行う。日本でもそうだが、ここクルドでも夫や恋人からの理不尽な暴力に耐える女性たちがいて、そのためのシェルターがある。元夫や恋人がシェルターを襲うことがあるので(日本も一緒)、その用心棒になるのだという。
「イスラム圏で女性兵士がいるのはクルドだけ。ISやアルカイダなど原理主義者たちは女性の権利を認めない。クルドは女性も男性と同等の権利を有しているので、兵士にもなります。これが民主主義です」。
司令官は、このように説明してくれたのだが…。
女性兵士訓練キャンプを後に、キルクークへ。チェックポイントを超えて、キルクーク入りするとすぐに地面から炎が噴き出している。油田だ。この地域は石油の宝庫で、あちこちから原油が吹き出す。そして赤茶色に錆び付いたパイプラインが、はるかトルコまで伸びている。
そんなキルクークの郊外を西へ西へと走ることさらに1時間。巨大な石油施設が現れた。チェックポイントがあり、石油精製施設を隠し撮りしていたら、警備の兵士に見つかった。「石油施設だけは撮影してはならない」のである。撮影した写真を削除して、解放される。「石油施設」はISの襲撃対象なので、セキュリティーが特別に厳しいのだ。
更に西へ車で10分。前線に到着。塹壕から数十人の兵士が出てくる。ここから1キロ西側はISの支配地域。ズームでIS側を撮影。今年3月に来た時より、前線はかなり西に移動している。ISとクルドは長い「国境線」で接しているので、どこで戦闘が起こるかわからない。24時間態勢で警戒している。
兵士が持っているのはロシア製のカラシニコフ銃とドイツ製の自動小銃。ドイツの武器がクルドのペシュメルガに流入している。ドイツのメルケルがクルドに武器の援助をする、という記事が出ていた。ドイツ以外に、イギリス、フランスの武器も流入している。
一通り前線を取材し、帰路につく。前線からキルクークまでの道中、バイハッサンという町に巨大な油田。少し離れたところから吹き出す炎と石油精製施設を撮影。パイプラインがトルコ方面へと伸びている。イラク戦争は石油のための戦争と言われた。03年にイラク戦争が始まってからすでに12年の歳月が流れた。フセインは倒されたが、石油をめぐる内戦は終わらない。石油施設の壁には「クルドオイル」という看板。「クルド政府が運営している」ことを示しているが、実際にはエクソン、BP(ブリティッシュペトロ)、トタル(仏の石油会社)、ガスプロム(ロシアの石油会社)が入り込んでいる。そしてISを空爆しているのも、米、英、仏、ロなのだ。私は ISを支持しているのでは決してないが、「出来すぎた空爆」だと感じる。この地域が典型的な例になるが、「世界は武器と石油の取引で回されている」のだ。
日が沈む。幾つかの検問を無事通過し、無事スレマニに到着。今回もキルクークを取材できた。ここを訪問するたびに、「この土地は宝の山だ」と感じる。皮肉なことに「この土地が宝の山」だからこそ、争いが生じている。地面から吹き出ているのが石油ではなくて温泉だったら、ここは平和だったのになー。

11月20日、スレマニは快晴。今日は金曜日で休日なので、町はガラガラ。買い物しようにも何も買えず確かに不便だが、日本のように休日なし24時間オープン、盆も正月も関係なし、では労働者は疲弊する。このように1週間に1回くらいは、店を閉めるべきだと思う。
さて、今日はスレマニ郊外の「アシティキャンプ」へ。アシティとは現地語で「平和」という意味だそうだ。
キャンプへ。青い空に白いテントが広がっている。このキャンプにはクルド人のラジディー教徒、約3000人、スンニ派アラブ人が12000人暮らしていて、キャンプの中に一本、トラックが入れる大きな道があって、この道が「境界」になっている。キャンプの入り口から見て右側がクルド人の居住区。こちら側には、コンクリートブロックとセメントが運び込まれていて、曲がりなりにも床にはコンクリートが打たれ、基礎にブロックが使われたテントなので、雨が降ってもぬかるまないし、強風が来てもそれなりの強度を保つ。コンクリートブロックもセメントも地元スレマニ政府が支給したもの。家自体は避難民のヤジディー教徒たちが作った。一方、キャンプ左側のアラブ人居住区は、ドロドロの地面の上にテントだけが張られている。いったいこれはどういうことか?
スレマニ政府からすれば、ヤジディー教徒は同じクルド人で、ティクリートやモスルから逃げてきた人々は、アラブ人だ。クルドはフセイン時代に大虐殺を経験していて、そのフセイン政権を支えていたのが、スンニ派アラブという構図。もちろん、避難民にすれば、それは政府の話であって、人々はフセイン政府に従っただけで、「弾圧する意思などなかった」のであろうが、現実はこのように「差別待遇」を受けてしまう。フセインによるクルドの弾圧は、過酷かつ大規模だったので、その憎しみの記憶がまだ存在しているのだろう。
ヤジディー教徒の家族に04年9月の出来事を聞く。「アラバットキャンプ」で聞いたものと、ほぼ同じ証言。
男性は虐殺、女性は「戦利品」として略奪。ISによる大虐殺を許すわけにはいかない。だが、ISを空爆したからといってISを根絶やしにはできない。こちらではISへの空爆を支持しつつ、米国も嫌いだ、という人が多い。大国に振り回されてきた歴史があるので、目の前の敵ISも許せないが、米仏ロの空爆も支持しない。それより「俺たちに武器を!」という発想。武器さえあれば、ISを追い出せると、考えている人が多い。
取材していて少し複雑な気分になるが、同じような意見は、シリアのアレッポでもよく聞いた。どちらに転んでも武器商人が儲かる結論になる。
さて明日は、キルクークの最前線に行く。

11月19日、ようやく雨が上がり雲の間から晴れ間が見え出した。避難民キャンプの人々もほっとしているだろう。今日はスレマニ市で100年前に発刊されたガラゥイッシュという新聞の創刊日で、これを祝う集いに参加する。スレマニを実効支配するPUK(クルド愛国者党)は、武力ではなく、言論と民主主義を今後も守っていく、という政治的なメッセージが込められた集会だ。
イラクのクルド地域には、大きく2つの政党があって、それがこのPUKと KDP。 KDPはクルド自治区の首都であるアルビル市を支配している。クルド地区の主導権を巡って、かつては内戦状態にあった両政党だが、今のところなんとか折り合いをつけて平和共存している。
集会の会場となった市民ホールに数百名の政府関係者がやってきて、周辺の道路は封鎖、カラシニコフ銃を手にしたペシュメルガ(クルド兵士)たちが会場の周辺に配置されている。
参加者たちに、パリのテロについて聞く。「テロは許せない。犠牲になった人々の冥福を祈りたい。しかし、こちらではクルド人がたくさん殺されているのに、ほとんど報道されていない。パリだと大きく報道される。不公平だね」という反応。今に始まった事ではないが、命の値段に差があるのだろう。
支援物資の毛布の買い出しへ。大きめの毛布を300枚。この毛布なら子ども4人はくるまって寝れるので、約1200名の子どもたちが、しばらく寒さをしのげることになる。「イラクの子どもを救う会」に募金いただいたみなさん、あらためて御礼申し上げます。今回もなんとか、支援物資を届けることができそうです。ありがとうございました。

11月18日イラクに入国し、北部のクルド地区スレイマニア市で取材を開始。通訳のファラドーンと今回の取材方針とスケジュールを調整する。スレイマニア市では昨日から豪雨に見舞われている。避難民キャンプでは地面ドロドロ、雨漏りに悩む人々の上に容赦なく雨が降り続いているとのこと。イラクといえば砂漠を連想し、暑い国というイメージが定着している。首都バグダッドや南部バスラ、サマワ周辺についてはそのイメージであまり違いはないが、北部のクルド地域は山岳地帯で、冬は雪が積もる厳しい気候なのだ。ISがクルドの山岳地帯に攻め込んできて、2度目の冬を迎える。まずはヤジディー教徒たちのキャンプを訪問することにする。
スレマニから車を飛ばすこと30分でアカラバット避難民キャンプに着く。半年前ここに来たときは、山裾までテントが続いていた。テントの数が少し減っているので、「避難民が帰還できたのか」と尋ねると、現実は逆で、避難民がどんどんやってくるので、地元政府がここから数キロ先に別のキャンプを作って、「主にヤジディー教徒のクルド人」と「主にスンニ派のアラブ人」の2つのキャンプに分けた、とのこと。
キャンプの玄関にUNHCR(国難民高等弁務官事務所)の大きな看板。プレハブの事務所に入ると、キャンプ全体の地図が貼ってある。あまりにキャンプが大きいので、どの地域から逃げてきた人々が、どのあたりのテントに住んでいるか、地図が必要なのだ。
キャンプの中へ。ドロドロ道の両サイドに新しいテントが続く。このキャンプにやってきた「新避難民」は、まずはこのテントに住んでから、出身地の村人たちが多く住むテント群に振り分けられていく。その中の一つに入る。靴を脱ぎ、テントの中に敷かれた絨毯を踏む。じわっと靴下に水が染み込む。昨日からの雨で、絨毯が湿っている。天井に穴の空いたテントシート。これでは子どもが風邪を引いてしまう。人々は「毛布と上着が欲しい」と訴える。12月には、この雨が雪に変わる。今回の支援物資を毛布に決定する。
避難民の多くは、イラク中部のティクリートから逃げてきたスンニ派アラブ人だった。ティクリートはフセイン大統領の出身地として有名な都市で、「スンニ三角」を形作っていた要衝の町である。いったい何が起こったのか?
「イラク政府軍とシーア派民兵が町にやってきた。彼らは『スンニ派狩り』というべき大虐殺を行った。そのシーア派主体のイラク軍と戦っている、その隙に…」。ISが町を占領してしまったのである。彼らは「イラク軍とISはつながっている」と訴えた。ユスラさん一家もティクリートの家を奪われ、徒歩で町を逃げ出した。1週間、歩き続けた。大人でも厳しいその逃避行で、7歳の息子が疲労のため亡くなった。遺体は道路脇に埋めた。11ヶ月前に、このキャンプに到着して、テント生活が始まった。現在はスレマニで建設労働の仕事につけたので、生活はなんとかやっていけている。しかし子どもの上着と毛布を買うお金がないので、この冬が恐ろしくて仕方がない。ティクリートに比べて、スレマニは寒いのだ。
ユスラさん一家は、03年から始まったイラク戦争に振り回されてきた、と言える。フセイン時代、確かに政治的な自由はなかったが、家や命まで奪われることはなかった。「イラク人に自由を与える」としてブッシュ大統領が強引にイラク戦争を始めた結果、イラク社会が崩壊し、武器があふれ、簡単に人が死ぬ、ルールなき社会になってしまった。当時バグダッドで聞いた人々の声を思い出す。
「アメリカがイラクに与えてくれた自由は、人を殺しても、誘拐しても捕まらない自由だよ」。あれから12年、イラクの混乱は泥沼の内戦を招き、そしてISが出現するに至った。ブッシュやラムズフェルド、チェイニー、ブレア、小泉首相など、「イラク戦争を開始した人々」は誰もこの責任を取っていない。

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