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        <title>イラクの子どもを救う会ブログ</title>
        <link>http://www.nowiraq.com/blog/</link>
        <description>ジャーナリスト西谷文和が代表をつとめるNGOイラクの子どもを救う会の情報と現地の最新レポートをお届けします。</description>
        <language>ja</language>
        <copyright>Copyright 2008</copyright>
        <lastBuildDate>Sat, 14 Jun 2008 00:55:12 +0900</lastBuildDate>
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            <title>ドバイで延長戦</title>
            <description><![CDATA[<p>6月12日夕刻6時。スーダン・ハルツーム空港からドバイ経由で大阪へ。しかし飛行機は飛ばない。待つこと1時間、2時間…。どうやら一昨日の大事故の影響で、大幅にダイヤが乱れているようだ。<br />
ようやく飛行機が飛ぶ。ドバイまでは3時間半のフライト。ドバイ上空で「本機は着陸態勢が整うまで待機します」とのアナウンス。空港の上空で旋回しながら、着陸を待つ。この時点で、すでに午前2時。ドバイ発大阪行きの飛行機が2時35分発なので、あせりながら、着陸を待つ。<br />
着陸。ロンドンやＪＦＫ空港への客たちと競争しながら、ボーディングパスを求めるが、この時点で、ロンドンと大阪への客はアウト。無常にも大阪への飛行機が飛んでいった。<br />
ということで、想定外のドバイにもう一泊している。空港近くの5つ星ホテルに泊まって、食事も無料提供なのだが、それより日本での仕事が気にかかる。<br />
ハルツームで禁酒して5日、今日はうまい酒を日本で飲む予定だったのだが、もう一日禁酒日延長である。<br />
</p>]]></description>
            <link>http://www.nowiraq.com/blog/2008/06/post-159.html</link>
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            <pubDate>Sat, 14 Jun 2008 00:55:12 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>スーダン最終日、避難民キャンプを再訪</title>
            <description><![CDATA[<p>6月12日、いよいよ本日がスーダン最終日。午前中ＵＮＨＣＲのハルツーム事務所を訪問し、活動内容を取材。その後、昨日も訪れた「ジャバル・アウリヤ」避難民キャンプへ。</p>

<p>昨日はユニセフと一緒だったので、検問をすぐに突破できたが、本日はタクシーである。パスポートと撮影許可証、ＩＤカードなどをチェックされるが、無事通過。国内避難民キャンプには、ダルフールからの避難民がたくさんいるので、スーダン政府はジャーナリストの出入りに神経を尖らせている。</p>

<p>避難民キャンプで、日本からのおもちゃを配る。おもちゃがある、と分かると、どこからか「わいてきたように」人々が集まってくる。風船やサッカーボール、シャボン玉など、どれもがすごい勢いで、人々の手から手へと渡る。</p>

<p>子どもを抱えた母親にインタビュー。彼女はやはりダルフールから逃げてきて、ここに住んで16年。10人の子どもがいる。泥でできた家の中には、所狭しとベッド、食器、ガスコンロ…。電気は来ていないが、プロパンガスは買えるようだ。ロバで引っ張ってきた水をドラム缶ごと買っていて、ドラム缶一つで16ポンド（800円）だという。16ポンドは、この人たちにとっては大金である。</p>

<p>ダルフール紛争は、この数年で悲惨さを増しているが、多くの人々の証言によると、16年前から逃げてきているという。紛争は今に始まったものではなく、長期間続いていることが分かる。これは南部のジュバでもそうだった。今になってようやく注目されているだけで、本当はもっと早い段階で、国際社会が注目すべきだったといえる。（こんなえらそうなことを書いている私自身、スーダンの状況については、こちらへ来るまで無知だったに等しい）</p>

<p>さて、約2週間弱にわたってスーダンの現況を見てきたが、まだまだ「かじった程度」の取材である。私のおもな取材先はイラクであるが、戦争で家や財産を失っている状況は、イラクもアフリカも変わらない。来る6月20日は難民の日である。一年でその日だけ注目されるのではなくて、ずっと関心を持ち続けて行きたいものだ。</p>]]></description>
            <link>http://www.nowiraq.com/blog/2008/06/post-158.html</link>
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            <pubDate>Thu, 12 Jun 2008 20:44:19 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>ハルツームの避難民キャンプを訪問</title>
            <description><![CDATA[<p>6月11日未明、東京から電話。スーダン・ハルツームの空港で飛行機事故があり、多数の死者が出ている、との連絡。あわててテレビをつけると、アルジャジーラが特集している。<br />
死亡したのはイラク人2人とスーダン人40人ほどで、200人以上が病院に運ばれているとのテロップ。深夜、タクシーを飛ばして空港に向かおうとするが、ホテルのスタッフが「行っても無駄。現地周辺は物々しい警戒で、中に入れてもらえない」とのこと。それにこの時間、タクシーも走っていない。</p>

<p>仕方なく朝までテレビを見て、その後、ユニセフへ。</p>

<p>ハルツーム・ユニセフ事務所の職員と一緒に、「ジャバル・アウリア」という国内避難民キャンプを訪問。<br />
「ジャバル・アウリア」は、1992年にできて、以後避難民が急増し、今では２万５千人を数える巨大なキャンプ。泥で作られた家が延々と続く。本日は、このキャンプの中で「ＨＩＶエイズ予防教育」が行われているので、そこを取材する。<br />
それにしても広大なキャンプだ。泥でできた避難民の家のほかに、やはり泥でできた店、学校、診療所。<br />
ロバが青いドラム缶を運んでいる。「あれが給水車だ」とスタッフ。水道がないので、このようにロバできれいな水を運んでいる。電気はなく、自家発電のジェネレーターがうなっている。そんな中、「青空エイズ教室」が開催されていた。<br />
正面にはユニセフが作成したポスター。「ＨＩＶ陽性になっても、普通に生活できますよ」「栄養あるものを食べて長生きしましょう」などとアラビア語で書かれている。大事なのは「差別されないこと」。サハラ以南で爆発的に増えているエイズ。このキャンプは南部スーダンからの避難民が多いので、結構陽性の人が多いそうだ。「怖がらずに健康診断を受けましょう」というポスターも。<br />
こうしたポスターを見せながら、エイズ予防教育をするのかなと思えば、そこはアフリカ。まどろっこしい話ではなく、歌と劇でエイズ予防教育。現地語なので、何を言っているのかは分からないが、歌の最後に抱き合ったりしているので、「陽性でもずっと友達だよ」などというメッセージなのだろう。</p>

<p>エイズ教育の現地責任者は18歳の女性。彼女はスーダン西部、ダルフールからの避難民だ。「エイズのことを知らずに感染する人が多い。ちゃんと知らせて、予防教育をすることが大切だと思ったので、責任者を引き受けた」とのこと。<br />
内戦で家や家族を失い、貧困のどん底に突き落とされたあと、エイズが襲う。12歳の少年がいる。将来何になりたいかと尋ねると、「医師になりたい。医師になって家族を助けたい」との答え。希望の灯は、まだ失われていない。</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p><br />
</p>]]></description>
            <link>http://www.nowiraq.com/blog/2008/06/post-157.html</link>
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            <pubDate>Wed, 11 Jun 2008 22:02:03 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>ハルツーム、瓦礫と化した「化学薬品」工場</title>
            <description><![CDATA[<p>6月9日夕刻に、ハルツームのシナ・化学薬品工場を訪れた。ここは1998年にアメリカによるトマホークミサイルで徹底的に破壊されたところ。98年はビンラディンのアルカイダグループによって、ケニアとタンザニアの米大使館が自爆テロで襲われ、数百人の死者を出した年。アルカイダが一躍悪名高くなっていく過程の事件だ。<br />
実は96年まで、ビンラディンはこのスーダン・ハルツームに匿われていた。スーダン政府がイスラム原理に近いので、ビンラディンを受け入れざるを得なかったのだと思う。</p>

<p>ビンラディンとの関係を疑ったアメリカ、ハルツームの工場で化学兵器を作っているのでは？と、この工場を破壊したのだ。この攻撃には、多分に「報復」の意味がこめられている。しかし狙い撃ちされた、シナ化学薬品工場は、単なる化学薬品を調合するだけの工場だった。</p>

<p>現場は当時のままに残されている。数発のトマホークが、ピンポイントであたっている。トマホークははるかかなた、紅海上の艦船から撃たれたもの。瓦礫と化した工場の正門には、なぜかスーダン人がいて、「ここを撮影しては問題だ」などと言う。たまに私のようなジャーナリストが来るので、何か言って金をせしめようという魂胆だ。10ポンド（約400円）渡して、中へ入る。無残にも破壊された工場の瓦礫の中に、「普通の」薬瓶が転がっている。ここが化学兵器製造工場でないことなどは、ＣＩＡなら知っていたのではないかと思われるが、アメリカはミサイルを撃ち込んだ。「テロとの戦い」の走りのような事件だ。</p>

<p>いきなりミサイルを撃ち込まれたスーダン政府の面目は丸つぶれであっただろうが、その後、スーダン政府は明確にこの事件を非難していない。しかし、現場をそのままに残しておくことで、「無言の抗議」をしているのかもしれない。<br />
もしスーダン政府がビンラディンを追い出さなかったら、９・１１後、すぐに戦争になったのは、このハルツームであっただろう。ビンラディンはスーダンから追い出され、アフガン・タリバンの元に匿われた。歴史の運命を、少しだけ感じる。</p>]]></description>
            <link>http://www.nowiraq.com/blog/2008/06/post-156.html</link>
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            <pubDate>Tue, 10 Jun 2008 19:33:23 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>ＪＩＣＡのスーダン事務所と病院を訪問</title>
            <description><![CDATA[<p>ここハルツームは、異常な暑さで、20分も外へ出ていれば、シャツが汗でびっしょりになる。白ナイル川をボートで渡り、中州で繰り広げられている農業を見物していたのだが、あまりの暑さに熱中症になりかけてしまった。ナイルで水浴びでもすればよかったのかもしれないが、白ナイルは名ばかりで、実際の水は「黒ナイル」。ここで泳いで、誤って水を飲み込めば、下痢をしてしまうと感じたので、水浴びはやめた。現地の子どもたちは気持ちよさそうに泳いでいたのだが…。</p>

<p>さて、以下は７～9日までの記録。</p>

<p>６月７日は、ジュバからハルツームへ飛んだ。その足でハルツーム政府の外国人メディア事務所を訪問。ハルツーム市内の撮影許可を申請。ダルフールに行きたいと申し出るが、ダルフールへの移動許可は、早くて１週間、平均すると10日も待たねばならない。<br />
西側メディアがダルフールに入ることに、神経質になっているようだ。今回の取材日程では、ダルフールはあきらめるしかない。</p>

<p>８日、ユニセフを訪問。ハルツーム市内にある国内避難民キャンプへの取材を申請し、快諾を得る。</p>

<p>９日、ＪＩＣＡのスーダン事務所を訪問。所長の宍戸さんにお話しを聞く。<br />
ＪＩＣＡがスーダンで活動を始めたのは、比較的早く、現バシル政権になってさまざまな人権弾圧問題が出てきて、いったん活動を中止。05年、北部と南部の停戦合意を受け、活動を再開した。<br />
現在力を入れているのは、母子保健。国土が広く、自宅出産の多いスーダンでは、乳幼児死亡率が高い。したがって助産師の育成に力を入れている。具体的には８００のコミュニティーに８００人の助産師を目標としている。現在は５００人しかいないので、あと３００人を育成しなければならない。<br />
加えて、「産婆だけではダメ」で、妊婦の健診や新生児へのワクチン投与、村への衛生教育、ＨＩＶ予防教育など、助産師の仕事は多岐にわたる。<br />
こうした母子保健の取り組みに加えて、ここハルツームでは、ＪＩＣＡの援助で建設された「イブン・シナ病院」が稼動している。<br />
病院へ。正面には日の丸とスーダン国旗。中へ入ると、外来患者が列を成して待っている。<br />
この病院では透析やＸ線検査が可能で、慢性疾患の患者さんに喜ばれている。放射線の機械や透析の器具などは、１９８３年に日本が寄贈したもの。25年たった今も、何とか稼動しているが、ＣＴスキャンなど、最新の医療器具が必要だ、と現場の医師。</p>

<p>自衛隊をスーダンに派遣するお金があるなら、その分をこの病院に回せばいいのに、と感じる。<br />
さて、ハルツーム市内の取材許可証をゲットできた。国内避難民キャンプを取材できればいいのだが。</p>

<p></p>

<p><br />
</p>]]></description>
            <link>http://www.nowiraq.com/blog/2008/06/post-155.html</link>
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            <pubDate>Tue, 10 Jun 2008 01:48:01 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>ロロゴ難民キャンプを取材</title>
            <description><![CDATA[<p>ハルツームに帰ってきて２日目。首都は平穏で人々も親切。日中は４０度近くまで気温が上がるので、水分補給を欠かせない。ここではネットができるのがうれしいが、アルコールは絶対に飲めない非常に不便な国だ。以下は、一昨日の取材。</p>

<p>6月6日、今日はジュバで活動するＪＶＣ（日本国際ボランティアセンター）を取材。ここジュバでは悪路のため、さすがトヨタのランドクルーザーでもよく故障する。ＪＶＣは自動車の修理工場を運営し、現地スーダン人に技術を教えながら、毎月40台ほどの自動車を修理・改修している。<br />
ここで働く30人ほどのスーダン人は全て帰還民。それぞれウガンダやケニアなどからスーダンに戻ってきた若者たちだ。修理する車の多くは、ＵＮＨＣＲのものであったり、他のＮＧＯの車であったりする。<br />
ピースウインズジャパンの車がやってきた。雨季になったので、ランドクルーザーの運転席付近まで水に漬かってしまった、とのこと。<br />
昨日のニムレで道がところどころ巨大な水溜り、小さな池になっていたのを思い出す。</p>

<p>ＪＶＣを後にして、ジュバのウェイステーションを再訪する。一昨日３００人ほどの帰還民が帰ってきたが、多くはすでに故郷へ向けて旅立ったようで、いまだに残っているのは数十家族ほど。この人たちも数日で故郷に戻れる日がやってくる。<br />
戻ること自体は大変うれしいことなのだが、実は多くの場所で、難民と帰還民の「逆転現象」が起こっている。つまり、ウガンダに逃げた難民は、国連その他が援助して、学校にも通えるし、食料にも不自由しない。<br />
しかしスーダンに帰還した人々は、故郷の家を焼かれ、学校もなく、電気もきれいな水も供給されない地域が多い。<br />
これではせっかくスーダンに帰ってきたのに、ウガンダで難民生活を送るほうがマシだ、ということになってしまう。20年もの長きにわたって内戦を繰り広げてきた南部スーダンであるから、社会的インフラを整えていくのはこれから。しかし事態は急を要する。どんどん難民が帰ってきていて、昨年25万人の人口であったジュバが、今年は50万人を越えて倍増している。道路を整備し、学校を作り、医療機関を充実させる。この地域では、今が日本の出番であろう。</p>

<p>次にジュバ郊外にあるロロゴ難民キャンプを訪れた。ここは帰還民ではなく、エチオピアから逃げてきた難民たちのキャンプ。エチオピアでも激しい内戦の末、多くの難民が発生している。スーダン内戦がとりあえず停戦したので、3年前からエチオピア人がここへ避難しはじめたのだ。<br />
かくして南部スーダンでは、他国へ逃げざるを得なかった8万人もの難民を生み出しながら、一方で他国から難民を受け入れている複雑な地域となった。</p>

<p>ロロゴ難民キャンプのエチオピア難民たちの話によると、政府軍が村を襲ってきて、大量虐殺があったようだ。ここからエチオピア国境までかなりの距離であるが、「3ヶ月かけて歩いてきた」と小さな子どもを抱えた母親。スーダンが平和になったと聞いてやってきた。このキャンプができたのは２００４年。子どもたちは学校に通えていないし、電気もきれいな水もない。南部スーダン政府にとっては、自国の帰還民への福祉医療も整備できていない中で、エチオピア難民にまで手が回らないのだろう。ここにはＵＮＨＣＲとＷＦＰが入っている。唯一の頼りは、国際的な援助だけである。<br />
</p>]]></description>
            <link>http://www.nowiraq.com/blog/2008/06/post-154.html</link>
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            <pubDate>Mon, 09 Jun 2008 00:48:59 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>スーダン、ウガンダ国境の町、ニムレへ飛ぶ</title>
            <description><![CDATA[<p>続いて、ジュバ2日目の模様。</p>

<p>６月５日午前９時、ジュバの空港から国連機でスーダン最南端の町ニムレへ飛ぶ。車体にＵＮと大書された国連機に乗るのはもちろんはじめてであるが、わずか12人乗りのプロペラ機に乗るのも初体験だ。小型乗り合いバスのような車内、コックピットから前方の景色がよく見える。本日は快晴なので素晴らしいフライトになるだろうが、今は雨季である。雷雨が来れば、木の葉のように揺れるとのこと。</p>

<p>９時半、ジュバを出発。プロペラ機は空港を旋回しながら南方へ進路を取る。眼下にはミニチュアのようなジュバの街と、白ナイル川。頭に水を乗せて歩く女性の姿まで見える。原生林の上空を国連機が飛ぶ。「象の群れを見れるかも」と、ＵＮＨＣＲの現地副代表、ジェフさんが叫ぶ。<br />
残念ながら象の群れは見ることができず、一時間ほどのフライトでニムレ上空。飛行機は旋回を数回繰り返し、高度を下げていく。「あれが空港だ」とジェフさん。「えっ？あれって草原の中に…」。そう、「空港」は草原の中に伸びる、一筋の赤茶けた「道」だった。舗装もされていない、デコボコの大地。ガガガッ、タイヤから白い煙を上げながら、国連機はけなげにも無事に着陸してくれた。</p>

<p>「空港」にはＵＮＨＣＲの現地スタッフが待ってくれていた。トヨタのランドクルーザーに分乗し、目的地のガンジ村まで走る。「雨季が来たので、道は最悪だよ」ドライバーの言うとおり、デコボコ道に時折巨大な水溜り。「トヨタのランドクルーザー以外では、おそらく無理だね」。私が日本人だからか、「トヨータ！」と親指を立ててくれた。<br />
約１５㌔進むのに一時間ほどのドライブ、ようやくガンジ村へ。大きな木の下で子どもたちが集まっている。「青空学校」のようだ。<br />
カメラを回すと、ワーワー叫んで近づいてくる。この子どもたちは全員が先月ウガンダから帰還したばかり。教師もまたウガンダからの帰還民だ。<br />
50～60人ほどの子どもたちに、ユニセフの教科書が数冊。家の仕事を手伝っているのか、鍬を抱えたまま授業を受ける女の子もいる。<br />
先生が、髪の毛を指差して「ヘアー」、口に「マウス」、耳をつまんで「イアー」。手持ちの黒板にスペルを書いていく。<br />
「青空教室」の隣で、「青空健診」が始まった。ポリオの予防薬を子どもたちに飲ませていく。予防薬は赤十字が用意したもの。<br />
学校の教師にも、予防薬を飲ませている医師にも、給与は支給されていない。「ボランティアワーク」と医師が答える。<br />
「青空教室」から車で数分走ると、診療所がある。中をのぞくと、赤ちゃんを抱いた母親。昨晩から高熱が出ているので、ここへ連れてきたのだ。しかし医師はいないし、薬もない。マラリアでなければいいのだが。</p>

<p>ニムレのウェイステーションへ。<br />
ここはジュバのものより大きくて、一度に１０００人を収容できる。ニムレはウガンダとの国境の町なので、まずウガンダからニムレにやってきて、そこから故郷への長い道のりを取る。<br />
帰還民を乗せたバスが車列を作ってやってくる。「オー、レレレレー」アフリカの部族特有の甲高い声を上げて、女性たちが出迎える。ほとんどの帰還民にとって約20年ぶりのスーダンだ。<br />
杖を突いて歩く老女がいる。もしや地雷では？とインタビュー。地雷ではなかった。難民となってスーダンから逃げ出すとき、「早く、早く！」といわれ、急いで走り出したときに穴ぼこに足を取られ、骨折してしまったのだ。それ以来約20年、彼女は杖を欠かせない。<br />
20年ぶりに帰還する決心をしたのはなぜか？と尋ねてみた。<br />
「私の周囲の人がスーダンに帰還し始めた。でもスーダンはまだまだ危険だと思っていたので様子を見ていたの。でも帰還した人がウガンダに戻ってこない。これはもう大丈夫なのかな、と思ったわ」。<br />
人々がスーダンからウガンダやケニアに逃げたのは、1983年と1989年の内戦勃発時が多い。89年に逃げた人は19年間を、83年に逃げた人は25年間、つまり四半世紀を難民として暮らさざるをえなかったのだ。</p>]]></description>
            <link>http://www.nowiraq.com/blog/2008/06/post-153.html</link>
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            <pubDate>Sat, 07 Jun 2008 20:53:27 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>南部スーダン、ジュバで難民取材</title>
            <description><![CDATA[<p>南部スーダン、ジュバではインターネットができなかったので、詳細をブログにアップすることができなかった。<br />
以下は、ジュバ初日の記録。</p>

<p>６月４日、早朝の飛行機に乗り、ジュバという南部スーダンの街へ。スーダンはアフリカ一広い国で、国内線だがジュバまで２時間以上かかる。</p>

<p>午前９時半、ジュバ到着。ハルツームは砂漠気候なので、ナイル川沿いだけが緑で、他は茶色の大地であったが、ここは雨が降るのでサバンナのような草原と、青々とした山が広がる。行きかう人々のほとんどが黒人のブラックアフリカである。同じ国スーダンであるが、民族も宗教も気候も肌の色までが違う。ここ南部スーダンでは２０１１年に住民投票をして、独立するか否かを決めることになっているが、確かにこれほど違えば、「独立したい」という南部の人々の気持ちも分からないではない。</p>

<p>空港でＵＮＨＣＲの滝沢氏と出会う。ＵＮＨＣＲ（国連難民高等弁務官事務所）のジュバオフィスで、南部スーダンの難民の状況についてレクチャーを受ける。</p>

<p>午後４時、ウガンダからの難民が、ジュバに帰還してくる。ここは「ジュバ・ウェイ・ステーション」。つまり長引く内戦で故郷スーダンを捨てて逃げ出した難民たちが、戻ってくるための「道の駅」なのだ。<br />
難民たちは車列を作って帰ってくる。先頭にはＵＮＨＣＲの旗を掲げたランドクルーザー。続くのが、ＵＮＨＣＲと大書された乗り合いバスだ。</p>

<p>大勢の難民たちが、ぞろぞろとウェイステーション（道の駅）の簡易宿泊所に入っていく。ここでは最大５００人が宿泊できるのだが、近年、帰還民が大量に発生しているため、テントを張ってあと２００人、つまり７００人収容の施設にすることが急務なのだという。</p>

<p>スーダンの治安が安定してきたという情報を元に、２年ほど前から多くの難民が、ケニア、ウガンダ、コンゴ、中央アフリカなどから帰還している。しかし事態は複雑で、スーダンが安定したから、エチオピアから難民が入ってきたりする。エチオピアではいまだに内戦が続き、ようやく和平が成立したスーダンを目指して逃げてくるのだ。故郷を捨てて逃げ出す民と、安全を求めて逃げてくる民とが混ざり合う国スーダン。アフリカ各地で長引く戦闘は、事態を非常に複雑なものにしている。</p>

<p>明日は、さらに南部ニムレの町まで飛ぶことになる。さて明日はどんな一日になるのだろうか。</p>]]></description>
            <link>http://www.nowiraq.com/blog/2008/06/post-152.html</link>
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            <pubDate>Sat, 07 Jun 2008 20:49:55 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>ハルツームにて</title>
            <description><![CDATA[<p>続いて、本日のハルツーム取材報告。</p>

<p>６月２日、無事スーダンの首都ハルツームに到着。ダンダスホテルに宿泊。ここでネットをつなごうと思ったのだが、このホテルは無線ＬＡＮになっていて私のパソコンではつながらない。日本を出る直前まで滋賀県の９条の会、和歌山の母親大会などに出席し、バタバタしていたので、もう３日ほどメールができていない。ブログも更新できていないのでご心配をおかけしているかもしれない。</p>

<p>このダンダスホテルには毎日新聞の記者＆カメラマンが宿泊しており、彼らもスーダンの難民取材のため昨日ハルツーム入りしたばかり。私のような気楽なフリーとは違って彼らはプロ。事前に綿密な調査をしていて貴重な情報を提供してくれる。スーダンの地図を前に、「このあたりは何ていう地域？」「それはですね…」。試験前、クラス随一の優等生に授業のノートを写させてもらった日々を思い出す。毎日新聞に感謝、感謝。</p>

<p>３日、午前中ハルツーム市内観光へ繰り出す。まず向かったのがナイル川。ここハルツームは青ナイルと白ナイルが合流する地点で、その雄大な姿をカメラに収めようという趣向だ。タクシーを拾って青ナイルへ。ハルツームの街中には英語を喋れる人がいるかと思ったが意外に少なく、通じるのはアラビア語のみ。運ちゃんと不自由な会話。とにかく「ナイルへ行け」と命じて車内から撮影。ナイル川にかかる橋を撮影しているときだった。「ここは撮影禁止だ」。警察官が２人、私のビデオカメラを取り上げようとする。スーダンは独裁政権で、写真撮影については、かなり気を使う国である。「あぁそうですか。知りませんでした。日本からです。以後気をつけます」と笑って答える。答えてから手を差し出して握手する。こういうとき笑って答えるのが決定的に重要。悲壮な顔をすると、彼らは「何か悪い目的でもあるのか？」と疑うので、下手をすれば刑務所行きだ。シリアでもジンバブエでも似たような経験をした。少しは腹が据わってきたのかな？</p>

<p>警官の目を盗んでナイル川を撮影。ナイルの合流点が見えるところには５つ星ホテル。ホテルのそばには建設中のビル。看板には「ＣＨＩＮＡ」の文字。中国資本が入っている。スーダンにも「石油成金」が生まれつつあるようだ。実際、街を歩いていると必ず「ニイハオ！」とあいさつされる。スーダンでアジアといえば、中国のことだ。<br />
ハルツームの中心部に戻り、市場（スーク）を歩く。道端に赤ちゃんを抱いた親子連れ。物乞いだ。私の次女「宝」が生きていれば、ちょうど同じ年恰好の子どもがいたので、思わず１０スーダンディナール（５００円程度）を手渡した。</p>

<p>パニックになった。</p>

<p>我も我もと手を差し出す人々。異邦人の私は街中で注目の的。「東洋人が金を出した！」固唾を呑んで見守っていた子どもたちがまとわりつく。「しまった！」と思ったが、後の祭りだ。足早に歩く私を、執拗に一人の子どもが追いかけてくる。帰れ！と振り払っても、ずっと付きまとう８歳くらいの少年。腹を指差して「食べていない」というジェスチァー。路地に入って、周囲に人がいないことを確認して、１０ディナールを手渡す。<br />
この国の、いや、アフリカの貧しさを改めて実感する。</p>

<p>さて、明日からはこのハルツームともお別れ。ジュバという南部の町へ飛ぶ。ジュバで難民キャンプを取材し、その後うまく行けばダルフールだ。短期間の取材なのでハルツームでゆっくりすることはできない。早く目的のダルフールに入らねば。</p>

<p><br />
</p>]]></description>
            <link>http://www.nowiraq.com/blog/2008/06/post-151.html</link>
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            <pubDate>Wed, 04 Jun 2008 01:56:45 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>ドバイ空港にて</title>
            <description><![CDATA[<p>今はスーダンのハルツームにいます。６時間の時差があるので、現在６月３日午後８時前です。ようやくインターネットがつながる店を発見。昨日、本日とアップできなかったブログを、アップします。<br />
以下は、ドバイの空港で書いたもの。</p>

<p>本日（6月2日）早朝、無事ドバイ到着。スーダン・ハルツームへの便に搭乗するのに、空港で9時間待ち。アフリカ大陸の土を踏むのは、私にとって13年ぶり。95年に南ア、ジンバブエ、タンザニアを旅して以来。</p>

<p>あの頃は右も左も分からなくて、ジンバブエの首都ハラーレで、ムガベ大統領の自宅付近を撮影していたら、いきなり警官に捕まったこともあった。そう、写真を撮影しただけで逮捕されることがあるなどとは到底考えていなかったのだ。ジンバブエではその後も「ムガベ独裁」が続いたが、ようやく野党が選挙で勝利するまでに変化してきた。内乱にならなければいいが。</p>

<p>当時のタンザニアはジンバブエよりも貧しかった。街角で販売されているタバコは、１箱ごとではなく、１本ごと。道路は舗装されずでこぼこで、クーラーつきのホテルが珍しかった。ジンバブエはキリスト教徒が多く、教会の風景などはそれなりに見慣れていたが、タンザニアはイスラム教徒が多かった。首都ダルエスサラームのレストランで「ビール」と注文すると、「うちには置いてません」。「なんというサービスの悪いレストランや」と憤慨していたが、今にして思えばイスラムでは当たり前のことだった。あの時が私にとってイスラム初体験だった。意地になってバーを探して、夜のダルエスサラームを徘徊した。細い路地を突き当たった看板も何もない店にビールを発見したときは、我ながら「よくやった！」とひそかに乾杯したものだった。</p>

<p>早朝５時。朝の祈りを知らせるアザーンの大音響でたたき起こされた。ホテルの目の前がモスクだった。「おいおい、朝の５時やないか」と祈りに参集するムスリムを眺めていたのが思い出される。<br />
今から訪問するスーダンは、北部がイスラム国家で、南部がキリスト教徒が多く住む地域。経済的にも優位に立つ北部のアラブ政権が南部を制圧するという構図から、南部の「スーダン人民解放戦線」（ＳＰＬＡ）が蜂起し、内戦。停戦が成立したものの、戦火の絶えない国の一つで、難民は１００万人規模といわれている。</p>

<p>首都ハルツームまでは問題なく入れるだろう。そこからダルフール地方に入ることができるかが勝負だ。北部のアラブ政府（ハルツーム政権）はダルフールを見せるのを嫌がるだろう。「国内移動許可証」をゲットできればいいのだが。</p>]]></description>
            <link>http://www.nowiraq.com/blog/2008/06/post-150.html</link>
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            <pubDate>Wed, 04 Jun 2008 01:52:47 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>憲法記念日に寄せて　イサームからの訴えです</title>
            <description><![CDATA[<p>イラク人ジャーナリスト、イサーム・ラシードが、憲法記念日に寄せて、熱いメッセージを送ってきてくれた。憲法９条は、日本だけのものではなく、世界の宝であることが分かる。今、憲法９条世界会議が開かれているが、このメッセージは「世界会議」へのエールである。私も明日（６日）大阪の舞洲アリーナで、奮闘する予定。</p>

<p>みなさんこんにちは。私はイラク人ジャーナリストの、イサーム・ラシードです。バグダッドに住んでいます。バグダッド市民はアメリカの不当な占領政策により、命が脅かされています。</p>

<p>この国では毎日のように死体、血、爆発を目にします。人々の瞳からは希望の光が消えてしまいました。日ごとに、生活から彩りや潤いが失われ、未来は暗く、一筋の光も見出せません。私は今混沌からこの国を救い出し、人々に平和な世界を取り戻すための希望を探し続けています。この希望を失う前に、私は日本を訪れ、多くの日本の友人と出会うことができました。</p>

<p>これは非常に重要な経験でした。なぜなら日本の友人たちは、私の人生を変えてくれました。生きる希望を与えてくれました。絶望してはいけないと教えてくれたのです。<br />
私たちイラク人は、繰り返される戦闘や占領に苦しめられています。</p>

<p>その苦しみの真っ只中にいるので、そして「戦争」という言葉の意味をいやというほど知らされたので、私はどんな国も戦争に巻き込まれてはいけないと思いますし、世界中の人々が平和に生きる権利があると思います。<br />
私は日本人ではありません。しかし２度にわたって日本を訪れることができたのは私にとって誇りです。私は素晴らしい日本の友人に恵まれ、日本と日本人を愛しています。私はあなた方日本人に、憲法９条を守り続けるよう、お願いします。憲法９条は、全ての戦争から、日本と日本人を救っています。そしてそれが私が日本を愛する理由なのです。<br />
この瞬間にも、私が日本にいることができたらいいなぁ、と感じます。どうか日本のみなさん一人ひとりが、この条文を守っていただくようにお願いします。</p>

<p>友人のみなさん、<br />
イラクの良識ある人々は、日本に、いやに本だけでなく世界中の国々に、平和でいてほしいと願っています。<br />
私たちは平和が必要です。どのような理由をもってしても、戦争をしてはいけないし、戦争からは何の結果も生まれません。<br />
語り合い、互いに理解し合い、愛し合うことが、私たちの基本です。私たちは人間であり、闘うモンスターではありません。<br />
言葉で言う以上に、私は日本のみなさんを愛しております。<br />
連帯の絆を。<br />
あなたの友人、イサーム・ラシードより</p>

<p>今、バグダッド、特にサドルシティーで米軍の無差別空爆により、かなりの死者が出ている様子だ。イサームの無事を祈る。</p>]]></description>
            <link>http://www.nowiraq.com/blog/2008/05/post-149.html</link>
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            <pubDate>Mon, 05 May 2008 15:58:41 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>ムーブ！とイブニングニュースで放送されます</title>
            <description><![CDATA[<p>帰国したら仕事がどっさりたまっていて、あっという間に一週間が過ぎ去った。イラクにいる時は午前中取材しても昼からは何もすることがなく、ただボーっと過ごしていたので、一週間が一ヶ月にも感じたのだが…。</p>

<p>昨日は<u>朝日放送ムーブ！</u>に生出演させてもらった。やはり生は緊張する。事前の打ち合わせでは、昨夕、4月4日の放送で、全ての映像を一通り放送する予定であったが、テーマが重過ぎるので、2回に分けて放送することになった。</p>

<p>次回は、<u>4月11日（金）午後4時半</u>ごろ。米軍が使用したと疑われる毒ガス兵器や劣化ウラン弾による被害の実態、自爆テロで犠牲になったムラート君のその後などを放映予定である。関西圏の方、夕方の忙しい時間帯ですが、観てやってください。</p>

<p>さらに、<u>TBSイブニングニュース</u>でも2回目の放映あり。こちらは<u>4月8日（火）午後5時半</u>ごろ。TBSイブニングニュースは、逆に関西圏や名古屋圏は見ることができないので、関東圏はじめ、各地の方々、よろしければ観てやってください。</p>]]></description>
            <link>http://www.nowiraq.com/blog/2008/04/post-148.html</link>
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            <pubDate>Sat, 05 Apr 2008 18:45:55 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>今回の旅を振り返って</title>
            <description><![CDATA[<p>本日深夜便で帰国する。3月3日に日本を出国したときは、雪が舞うほど寒かったが、今では桜が近いという。ここドバイでは連日30度を越える蒸し暑さで、昨日は5つ星ホテルのプライベートビーチにもぐりこみ、ちゃっかりとプール三昧を決め込み、ペルシャ湾に沈む夕日を見てきた。</p>

<p>さて今回のイラク取材を締めくくるにあたって、前進面と課題面を整理しておきたい。<br />
まずは、劣化ウラン弾によると思われる被害について、さらに認識が深まったということだ。とりわけ、アンマンでであったペニスのない子どもは衝撃的だった。彼はサマワの自衛隊基地から２㌔のところで出生した。ウランの粉末は風に乗って飛んでいく。自衛隊だけではなく、今後日本企業も、イラク南部の油田がらみで、進出していくだろう。きちんと医学的調査をして、将来に禍根を残さないようにするべきではないだろうか。<br />
近い将来、イラク情勢が安定すれば、おそらく商社マンや、NGO関係者、JICAなどが入っていくだろう。飛んでくる弾なら避けるすべもあるが、飛沫になって漂うウラン粒子を吸い込まない方法はない。<br />
バグダッドから逃げてきた子どもが２人とも、生まれつき直腸肥大で、人工肛門をつけていたのにも驚いた。遺伝子異常としか言いようがない。父親は「もうイラクでは子どもを生んではいけないんだ」と語っていたのが印象的だった。</p>

<p>次に、「米軍は神経ガスを使ったのではないか」という疑惑である。劣化ウラン弾を通常兵器と言い張る米軍なので、決して認めないだろうが、「状況証拠は限りなく真っ黒」である。空爆後に、だんだんと神経が麻痺して、重度の障害を抱えるようになった人が多数出ているのは、爆弾との因果関係を疑わざるをえない。原爆投下直後の情報を一切隠蔽し、ベトナムでは枯葉剤を使い、イラクでは劣化ウラン弾、クラスター爆弾を使い続けた国であるから、「新型神経兵器」を使ったとしても、それは「従来どおりの方針」なのかもしれない。<br />
日本人、ベトナム人、イラク人は全て有色人種であって、アメリカの中に「これらの人種には使用しても仕方がない」と考えているグループが存在するのかもしれない。</p>

<p>そして難民の現況である。ブッシュ大統領は「イラクの治安は大幅に改善した」と胸を張った。では、なぜ難民、避難民ともに、その数が増えているのか？テント生活の避難民たちは一刻も早くテントから元の家に帰りたいと考えているはずだ。それなのに、テントが作られ続け、２年以上も不自由な生活が続いているのはなぜだ？<br />
治安は回復していないのである。例えばバグダッドでは、シーア派は東へ逃げ、スンニ派は西へ逃げた。混住する地域から、いわゆる「民族浄化」に近いものが行われ、直接的な殺戮行為が減っただけで、互いの憎しみは深いままなのだ。<br />
通訳モハンマドに、「今バグダッドに帰ったらどうなる？」と聞くと、シーアの民兵に見つかったらすぐに殺されるよ、と答えた。彼のおじは「オマル」という名前のIDカードを持っているだけで殺された。「オマル」という名前は１００％スンニ派だからだ。</p>

<p>最後に５年目の３月２０日をイラクで迎えることができたのは幸いだった。イラクは今や３つの国に分かれてしまったといって過言ではない。北部クルド地域では、20日はちょうどノールーズという新年祭に当たった。イスラムは太陰暦なので偶然にも祝いの日と侵略開始日が重なったのだ。何十万人というクルド人たちが街に出て新年を祝った。一方アラブ人たちはこの日を歯ぎしりして迎えた。確かにサダム・フセインは倒されたが、その結果、残ったのは、分裂と恐怖、嫉妬、そして底が見えないほど深まった憎しみである。</p>

<p>ここドバイでは、今日も出稼ぎ労働者が高層ビルを建築し、街路ではごみを収集している。アラブの富豪たちは、冷房の利いた部屋で株式や原油の動向を調査しながら、投資対象を探している。<br />
新自由主義と戦争。強者はますます強くなり、弱者はさらに切り捨てられる。<br />
これを理不尽だと思って闘うか、それともあきらめてしまうか。私たちは今、その岐路に立たされている。</p>]]></description>
            <link>http://www.nowiraq.com/blog/2008/03/post-147.html</link>
            <guid>http://www.nowiraq.com/blog/2008/03/post-147.html</guid>
            
            
            <pubDate>Tue, 25 Mar 2008 17:17:55 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>成金都市ドバイを観光する</title>
            <description><![CDATA[<p>これまで私にとってUAEのドバイは通過都市であった。関空からドバイ便が、毎晩深夜11時に出ている。地理的にもドバイ空港はヨーロッパ、アフリカ諸国の中間に位置しているので、国際的な「ハブ空港」である。私はドバイから乗り継いで、アンマンかダマスカス、あるいはベイルートに入り、その後イラク入りを目指してきたのだが、最近になってドバイ～スレイマニア、アルビル便が飛ぶようになった。<br />
それだけ北イラクの治安が良くなったということだ。私にとって今後のドバイは通過都市から、拠点都市に変わるだろう。もうアンマンに出る必要はない。</p>

<p>さてそのドバイであるが、ハッキリ言って「成金都市」である。うなるほどのオイルマネーを背景に、各地で超高層ビルが建設中だ。世界一ののっぽビル「ブルジドバイ（ドバイの贈り物）」が建設中である。そしてそのビルの周囲は、超高層ビルが立ち並ぶ。まるでニューヨークみたいやね、とタクシーの運転手に言うと、「実は、こちらではこの地区をスモールニューヨークと呼んでいる」とのこと。</p>

<p>ちなみにホテルは７つ星まである。本日冷やかしたホテルのお値段は、シングルで一泊３９００ディルハム（約11万円）、ロイヤルスィートで11900ディルハム（約35万円）である。7つ星ホテルの最上階から、ヘリポートが伸びている。超お金持ちたちが、ドバイ空港からわざわざヘリをチャーターしてここにやってくるそうだ。さらに7つ星ホテルのプライベートビーチの先には、「ザ・ワールド」。海の中に世界地図とそっくりな人口島を浮かべ、そこに別荘を作り、分譲しているのだ。確かサッカー選手のベッカムがどこかの「国」を買ったとのこと。<br />
お前ら、ええかげんにせんかい！と突っ込みたくなるのは私だけだろうか。世界一ののっぽビルも、ホテルも、ザ・ワールドも、実際に建設しているのは、アジアからの出稼ぎ労働者だ。その他にもホテルの従業員、タクシーの運転手、各家庭のメイド…。これらは全て出稼ぎのインド人、パキスタン人、インドネシア人、フィリッピン人などである。<br />
したがってこの国ではアラビア語は必要ない。インド訛りの早口英語が理解できれば、それほど不自由さを感じない。クルド語しか通じなかった北イラクとはえらい違いだ。</p>

<p>UAEの人々、つまり土着のアラブ人は何をしているのだろうか？彼らはほとんど働かない。<br />
きつい、汚い、危険な、いわゆる３K職場には貧しいアジア人を働かせておけばいいのだ。<br />
私の宿泊する安宿の従業員にそれとなく尋ねたところ、彼はネパールからの出稼ぎ者で、収入は月に800ディルハム（約２万円）しかなく、６年契約だという。彼は現在２２歳ですでに３年間働いているので、あと３年すれば故郷に戻れる。上の兄もこのホテルで働いていてやはり月２万円の収入だ。<br />
故郷ネパールを出るとき、約1500ディルハム（約3万5千円）を銀行から借金して、航空運賃などに充てた。その借金は、3年たった今も返済中だ。</p>

<p>「ネパールにいた時に、ドバイに行けばお金が稼げる、と思った。でも実際に来て失望したよ。だってこのホテルの経営者は、ちっとも賃上げしてくれないし、かといって他も出稼ぎ労働者がいっぱいいて、仕事もないし…」と嘆く。<br />
彼の夢はあと3年後の帰郷だ。「僕の村は、当時ネパールの毛沢東主義者に支配されていたんだ。貧困の極みだった。でも毛沢東主義者がいなくなったので、村も良くなりはじめたと聞いている。ネパールに帰って、もう一度勉強して大学に行きたい」。</p>

<p>彼が6年かけて稼ぐ給料は、7つ星ホテルのロイヤルスイート4泊分に過ぎない。<br />
</p>]]></description>
            <link>http://www.nowiraq.com/blog/2008/03/post-146.html</link>
            <guid>http://www.nowiraq.com/blog/2008/03/post-146.html</guid>
            
            
            <pubDate>Tue, 25 Mar 2008 01:52:42 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>避難民キャンプの女性たち</title>
            <description><![CDATA[<p>３月23日無事イラクを脱出し、UAEのドバイに到着。今日からは普通の海外旅行だ。電気は一日中ついているし、街角に兵士がたむろしていないし、おそらく自爆テロも起こらない。考えてみればこれが普通の日常生活なのだが、あらためて「普通の日常生活」のありがたさが身にしみる。<br />
ということで、本日は20日に再度行った、カラア避難民キャンプの様子について。なぜもう一度このキャンプを訪れたかと言うと、①　開戦５年目で、この戦争についてどう思うのかを、聞いて回りたかったことと、②　この避難民キャンプの中で売春が行われていると聞いたので、その実態を調査したかった、からである。</p>

<p>①については、家を奪われ、夫を奪われ、命からがら逃げてきた避難民たちなので、この戦争に対する深い憤り、悲しみについて、再度取材することができた。問題は②である。</p>

<p>シーア派の民兵に兄を殺され、自宅まで調査が入り、取調べを受けた母娘がいた。この親子はスンニ派なのだ。娘は16歳。マフディ軍の事務所まで連れて行かれ、殺された兄のことを根掘り葉掘り聞かれた。通訳に「レイプされてないのか？」と尋ねる。通訳モハンマドは、4年前バグダッドで知り合った優秀なヤツ。「趣旨はわかった」とうなずき、慎重に娘と話をしている。「平手でほほを殴られただけで、レイプはされなかったようだ」。<br />
その日の夜、モハンマドは私にこっそりと事情を説明した。「俺の見たところ、彼女はレイプされている。母親がいたので言えなかったんだ。レイプされたことがばれると、結婚できなくなるからね」。</p>

<p>避難民キャンプをさらに奥に入っていく。一番後方のテントが現在製作中。テントを作っている男たちは、なんとここにベンツで乗り付けている。<br />
「ニシ、彼らが斡旋業者だよ。ベンツに乗っているし、酒を持ってきている。あのテントで斡旋するつもりだろう」モハンマドが、彼らに近づいていく。<br />
「バグダッドから？しかしいい車に乗ってるねぇ」「この車で、スレイマニアとバグダッドを往復し、難民たちを輸送する商売を始めたのさ」世間話が続く。彼らもまた、アメリカ出て行け！と叫んだ。これから「妻」とここに住むと言っていたが…。</p>

<p>その後、モハンマドは避難民キャンプの、とある女性と携帯電話で連絡を取っていた。売春せざるをえない実態をインタビューさせてほしいと依頼していたのだ。<br />
しかし彼女は取材に応じてくれなかった。もしインタビューに応じたのがばれてしまうと、刑務所行きで、なおかつスレイマニアから追放されてしまう。</p>

<p>夫を奪われ、家を失い、「勝ち組」のクルド男性に身体を売る女性たち。90年代は、この関係はまったく逆で、フセインの軍隊、つまりアラブ人たちがクルドの村を襲い、女性たちをレイプした。<br />
戦争とはつくづく弱者にしわ寄せが行くものだと感じる。</p>]]></description>
            <link>http://www.nowiraq.com/blog/2008/03/post-145.html</link>
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            <pubDate>Mon, 24 Mar 2008 17:05:03 +0900</pubDate>
        </item>
        
    </channel>
</rss>
