毎日新聞2004イラクレポート(4)

掲載日:2005年10月11日

風化させてはいけない「死のハラブジャ」

ハラブチャではサリンガスで5000人が殺された
ハラブチャではサリンガスで5000人が殺された

4月11、12日はクルド人地域へ行った。目指すはハラブチャというイラン・イラク国境の街。フセイン時代の1988年、サリンやマスタードなどの化学兵器が使われ、一瞬にして5000人が殺された街だ。直接の実行犯はフセインの親戚でアリという男。クルド人たちの間で「ケミカル・アリ」と恐れられた人物だ。ハラブチャには「デッド・ハラブチャ」「ライブ・ハラブチャ」という2つの街がある。「どうもここで大量にクルド人が殺されたようだ」とジャーナリストたちがやってくる。フセインは近所に新しくハラブチャの街を作って元気な人々を移住させる。「虐殺なんてウソですよ。ほら、ハラブチャの人々はこんなに元気で働いています」。これが「ライブ・ハラブチャ」。だから本当のハラブチャ、つまり「死のハラブチャ」が公開されたのは最近になってからだ。

ヒロシマにも原爆資料館があるが、ハラブチャにも最近になって資料館ができた。資料館の黒壁に、サリンガスで亡くなった5000人の名前が刻まれている。当時の貴重な写真が飾られている部屋へ。「あぁ、これは原爆と一緒だ」。展示されている写真を見た瞬間、ヒロシマ・ナガサキを思い出した。ガスから逃れようと、山を駆け上がろうとした人々が折り重なって死んでいる。「水がほしい」と川に向かう途中、死んでいった被爆者の姿がダブる。ケロイドのような焼け爛れた顔、体育館が野戦病院となり、手当てを受ける幼い子ども…。

なぜフセインはこの街にサリンガスを撃ったのか?それはイラン・イラク戦争である。イスラム革命後のイランをフセインが攻撃したのは1980年のことだ。背景には「アメリカの意向」があった。80年代、イランはすでにアメリカにとって「悪の枢軸」であり、イランからイスラム革命がアラブ諸国に伝播するのを食い止めたかった。中東の石油を守るためアメリカは「親米の」サダムフセインを利用した。フセインに武器を供給し、イランと戦わせた。戦争は8年も続き、やがてフセインの弾圧に抗してクルド人たちが立ち上がる。国境の町ハラブチャはやがてイラン側に帰属するようになる。あせったフセインはそこで「禁じ手」を使用した。化学兵器である。クルド人ならいくら殺してもいいと考えたのか、ハラブチャを始め国境の村にサリンガスを撃ち込んだ。イランはたまらず引いて行き、国境線が元に戻ってイラン・イラク戦争は終了した。当時アメリカはサリンを使ったフセインを黙認した。それから15年後、「大量破壊兵器を隠し持っている」という理由でアメリカはイラク戦争を始めた。「それなら何であの時フセインを責めなかったの?」。アメリカの正義って一体なんだ?

ここにも戦争被害者が

10人家族で彼一人生き残った
10人家族で彼一人生き残った

カーメル・アブドルさん(31歳)を訪ねた。当時15歳のカーメルさんは10人家族だったが、両親と7人の兄弟を失い、たった一人生き残った。サリンガスを吸いながら山を越え6日間歩いてイランの病院に運ばれた。奇跡的に一命は取りとめたが今も薬は手放せない。「神が証人を必要とされたから私は生き残ったのだと思います。薬の質が悪いのでもっと良い薬がほしいです。国際的な援助ですか?ありませんね。元気に働けないので、生活は苦しいです」。戦争の犠牲者がここでもひっそりと苦しんでいる。